2007年10月27日
三国史記の見解
北進政策と契丹侵入と呼ばれるものがあります。これは何でしょうか。
その間、926年に北方民族契丹の遼(916年成立)が渤海を滅ぼすと、高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配する。これにより現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の西部を合わせた地域を版図とした。また、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。
しかし、宋は漢民族を統一したが、北方民族など周辺異民族を制する力がなく、契丹が高麗との国境まで急速に版図を広げた。契丹は993年から朝貢を求めて大規模な侵入を行うが撃退。江東6州の獲得と引換えに翌994年に朝貢した。1009年に政変が起きるが、政情不安の隙を突いて1010年に契丹が再度侵入し、首都開城に攻め込むが、高麗の将軍・姜邯賛の策略により、開城に高麗軍と物資はなく補給に難が生じた契丹軍は開城から後退。また、国王は羅州に避難した。姜邯賛は西京以北の要所要所に伏兵を配置し、契丹軍に反撃を加えて勝利した。続いて1013年から1015年まで継続して侵入するが高麗はこれらを撃退。15年に一度侵入を止める。しかし、その年に再再度侵攻した。高麗は1016年に宋の年号を用いた。1018年、蘇排押率いる10万の契丹軍が高麗に攻め込むが姜邯賛率いる高麗軍14万が鴨緑江と亀城にて、これを迎え撃ち大勝利を収めた。この戦いで生き残った契丹兵は、僅か数千に過ぎなかった。(亀州大捷)。侵攻は1019年まで続き、高麗は何度もこれを撃退するが、1020年に和がなり、1022年には遼の年号を用いて再び朝貢した。
その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。女真は1019年に日本へ侵攻(刀伊の入寇)した民族だと考えられているが、契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻し、高麗青磁など美しい磁器が発達し、仏教が普及した。
この間に女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年に金を建て、1125年に遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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